感謝を持ちながらも発想は自由に〜11月教室レポート〜
11月教室レポートです。
※下記の要約には、講師の小野田さんの話を聞いた私(土橋)の解釈が含まれています。小野田さんの直接の発言については、黒太字に記しています。
今月は、僕(投稿者:土橋健一)の相談から始まりました。
仕事で、大学に教えに行っているのですが、大勢の学生の前で話すとどうしても自分が緊張してしまう、生徒がなかなか話を聞いてくれない、どうしたら良いですか?という質問。
小野田さんは、プレゼンや講習をするときいつも即興でやっている。そしてその方がたいて上手くいく。
いつも即興でやること。即興でやるためには準備しない。
そのためには、相手に寄り添う必要がある。
そうすることでその場、その状況にマッチした対話ができる。
常に用意してから何かをしようとすることは、自分というものから外に出ないこと。
今までの自分の外に出るためには、予測できないカオスの中に入っていくことが必要。
人間の脳は常に用意できない状況に対応できるように出来ている。
自分が予想もつかないところに飛び込んでいくことで自分は変わっていける。
苦手だと思っていることは、実は幻想。
本当ではなく、自分が限定しているだけ。
その縛り上げている自分を解放することが大事。
それには自分の知らない世界に入っていくこと。
そしてもう一つは、フォノグラムの身体調整からのお話。
身体には、力が入っている部分(意識できているor意識しすぎている)と、力が入っていない部分(意識できていないところ)がある。
力んでいるところを力を抜くというのは、なかなか難しい。
そうではなく、力が入っていないところ=自分では意識ができていないところに意識を置くと、力んでいるところも抜けてくる。
同様の話で、脳は大事だと思うこと以外は、ないものとしてしまう特性がある。
なのでどうしても人間の見方には盲点ができる。偏った見方になりがち。
だから自分の見方以外の見方もあるということを知ってること、そしてその見方を探すことが大事。
(向かい合う顔と見るか、ツボと見るか)
身体と意識が互いに関連していることを考えれば、今まで意識できていなかった身体の部位に意識を向けることで、今までの自分の思考や発想とは違う発想ができる可能性がある。
フォノグラムの身体調整によって、意識のバランスが整い今までの自分では、想像もできなかった見方ができるようになるかもしれない。
フォノグラムは自分の枠組みの中から出て、自分を自由にする技術とも言える。
「先人に感謝しつつも、その情念から自由になって発想していくこと」
普遍的な真実というのは、個人の成果だけではなく、先人の成してきたこと、発見してきたことの積み重ねによって明らかになっている。
だから普遍的な真実をぞんざいに扱うと、先人の成してきたことをぞんざいに扱うことになる。
小野田さんの体験から、自分自身がイラっとすることと、自分自身のことではなく、普遍的な真実に対して敬意にかける言葉を聞いた時にもイラっとすることがある。
普遍的な真実の後ろには歴史がある。
歴史があると、情動、情念がある。
過去の人たちの想い(重い)がそこにある。
その情念は常にこの空間に存在している。
だから普遍的な真実に対して敬意を欠いた発言をすれば、その情念がイラっとする。
そこを無視して、進んでいこうとすると物事は上手くいかない。
感謝することが大事っていうのはよく言われる。
でも祈ってるだけでは、新幹線はできないし、スマートフォンは作れない。人の手が介入する必要がある。
重力の影響を受けるこの現実の世界では、肉体があり、手を動かす必要があり時間の制限の中で事を成していく必要がある。
1世代では終わらない作業もある。技術を継承しながら、何世代にも渡って物を作っていく、ことを成していく。
先人の想い(重い)を受けながら、物事を進めていくことが大事。
同時に真実というのは、普遍的なものだから伝承とは関係なしにいつでもどこでも存在している。
だから本来、真理や真実は空間や時間の制約なしにいつでも誰でも引っ張り出せるもの。
今までの時代は、この伝統や想いに縛られながら格闘しながら物事を進めていく部分が大きかった。
感謝することは大切で必要なことだが、これからの時代は、それを踏まえた上でそこから自由になって発想していくことが大事、それが可能な時代になってくる。
投稿者:土橋 健一
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